川端康成 『山の音』

  • 2014.06.14 Saturday
  • 16:08
近所の古書店で偶然見つけました。川端康成選集9巻『山の音』105円也。
店主は、ビジュアル系のインテリア雑誌やデザインの本が好みのようで、
文学書は、店の外の書棚に追いやられていました。

函の装幀といい、小B6判の持ち心地といい、小躍りするような本なのに。。。
全集の1巻だけだから、ご店主は価値観は見いだせなかったのでしょう。

「山の音」というこの字、素敵じゃないですか。
装幀は、町春草さんという女流書家で、銘菓ひよ子の題字も手掛けられた人。
 
この川端康成選集の全10巻の題字は全部違うらしい。ううん、興味あるなあ。
少しずつ、集めてみようかなあ。


さて装幀の話はこのくらいにして、
「山の音」は、初老の男とその家族の話で、淡々とした中に静かな感動が沁み出る一冊でした。
川端さんのそれは美しい日本語と、歯切れのあるテンポに魅せられて一気に読了。
鎌倉の谷戸に住む、ひと家族の人間関係が実に見事に描かれていて素晴らしい。
片思いの美女と結ばれなかった主人公が、息子の嫁にその面影を見い出してしまうという話で、家長として決して口に出したり態度に現せない思いが、実によく描かれています。人の美醜についても、考えさせられました。
主人公がボケの兆候をみておののく場面がとても印象的で、深く心に刺さりました。
【あらすじ】
舞台は鎌倉。
尾形信吾という初老の夫は、妻の保子と息子夫婦と暮らしている。
妻の保子は、年上のあまり美人とは言えない女。
実は、信吾の心は保子の姉に向けられていた。
しかし、美人の姉は嫁いだ先で死に、信吾は不器量な妹の方と結婚。

息子の修一は信吾と同じ会社 ( 東京 ) に勤めているが、信吾と一緒に帰宅することは少ない。
理由は浮気。
修一に愛人がいることは、嫁の菊子も薄々感づいているが、舅の信吾は腫れ物に触る感じで暮らしている。
菊子は美人なうえ、気働きのきく女で、この嫁を信吾夫婦は愛おしんでいる。

そんな中、娘の房子が子供連れで出戻ってくる。
房子は母親に似て器量が悪い。
良く出来た嫁と、薄幸な娘。
信吾・保子・修一・菊子・房子とその子供たちの生活は、危なっかしいバランスを保ちながら、鎌倉の谷戸でひっそりと営まれていく

この本には、鎌倉の花や虫や動物、四季折々の様子が沢山書かれています。
殆どが、姑の信吾と嫁の菊子の会話の中なんだけどね。
「梅が咲きましたね」
「菊子はぼうっとしているから、今日まで気がつかなかったんだね」
「あら、お父様ったら」みたいな会話がポンポンと…。

私が特に好きなのは、「鳥の家」(p.199〜)の章の鳶の話。
信吾が、今年初めて鳶の聲を聞いたという話を、台所にいる菊子に告げに行く場面です。
今朝はもう五月の半ば過ぎで、信吾は朝の鐘につづいて、鳶の聲を聞いた。
「ああ、やつぱりゐたんだな。」とつぶやくと、枕の上で聞き耳を立てた。
鳶は家の上を大きくまはつて、海の方へ出てゆくらしかつた。
信吾は起きた。
歯をみがきながら空をさがしたが、鳶はみつからなかつた。
しかし、幼げに甘い聲は、信吾の家の上をやはらかく澄ませて行つたやうだつた。
「菊子、うちの鳶が鳴いてゐたね。」と信吾は臺所へ呼びかけた。
菊子は湯気の立つ飯を櫃に移してゐた。
「うつかりしてゐて、聞きませんでしたわ。」

(中略)

「あの鳶がゐるとすると、うちの頬白もゐるわけだらうな。」
「はあ、烏もをりますわ。」
「烏 ( からす ) …?」
信吾は笑つた。
鳶が「うちの鳶」なら、烏も「うちの烏」のはずだ。
「この屋敷には、人間だけが住んでゐるやうに思つてるが、いろんな鳥も住みついてゐるわけだね。」と信吾は言つた。
『山の音』鳥の家 P.199より

「菊子、うちの鳶が鳴いてゐたね」というんだよね。“うちの”ですよ、“うちの”
鎌倉の谷戸で暮らす家族の様子が伝わってくるじゃない?

物語の中には、息子の浮気や娘の出戻りといった事件はあるんだけど、
色んなことが起きても、これからも日常生活が淡々と続いていくんだな、と想像させてくれる終わり方が好きです。

近所の犬(テル)が軒下で子犬を産んだ話、鳶の聲を聞いた話、ひまわりが咲いた話など、勝手口で青大将に遭遇した話などなど、それだけでも何度でも読み返してみたくなり、浸っていたい小説です。

山の上ホテルがあった場所

  • 2014.05.30 Friday
  • 12:00
山の上ホテルについて、まだまだ語りたい。
今回はホテルの建っている場所についてです。
以前も、ホテルがあった場所の古地図を楽しんだけど、
明治時代にはここは、小松宮邸だったんです。

『市郡變稱東亰全圖』1891年 ( 明治24年 )
小松宮 ( こまつのみや ) は、明治初期に、伏見宮邦家親王の第8王子の彰仁 ( あきひと ) 親王によって創設された宮家。
お父さんの 伏見宮邦家親王 は子だくさんで、皇籍離脱した旧皇族11宮家は全てこの人と血がつながっているらしい。
王子17人、王女15人のお父さんだったんだから。

宮家の継承は複雑で、跡取りがいない宮家を違う宮家の子が継承したり、猶子という親子関係を結んだりする。
猶子は養子と違って性が変わらないんだよね。
調べている内に、誰が誰の子だかわからなくなっちゃうくらい混乱するんだけど、結構好きなの こういう調べごと。

実はお父さんの小松宮彰仁親王が結構面白くて脱線しそうになってます。
伏見宮邦家親王は、王子だけでも17人いるんだから、その分エピソードも豊富。
鎌倉のある華頂宮邸も、邦家親王の第14王子-貞愛親王 ( さだなる ) の第1王子-博恭王 ( ひろやす ) の第3王子-華頂博信 ( ひろのぶ ) さんが造らせた洋館だったんです。


話を小松宮に戻さなくては。。。
小松宮彰仁 ( あきひと ) 親王 は、弘化3年1月16日(1846年2月11日)に生れて、明治36年 (1903年)に亡くなっています。ということは、古地図にある小松宮邸の主はこの方だったんでしょうね。
でも彰仁親王には子供がいなくて、腹違いの弟-東伏見宮依仁親王 ( お父さんの第17王子 ) を養子に迎えるんだけど、彰仁親王とそりが合わなくてね、彰仁親王が継承を希望していなかったもんだから、依仁親王は継嗣を止めて東伏見宮を創設することになったの。

そうして小松宮は彰仁親王一代で断絶していたけど、彰仁親王のすぐ下の北白川宮能久親王 ( 母親は彰仁親王と同じ ) の第4王子-輝久王(てるひさおう)が明治43年(1910年)7月20日に臣籍降下し、小松輝久侯爵となって小松宮の祭祀を継承したんだそうです。

写真出典:wikipedia

「古地図見るのは面白いけど、小松宮邸の写真はないかなあ」
ありました。ありました。
図書館で借りて来た大きな本。

『明治・大正・昭和 東京写真大集成』
あんまり重いから目方計ってみた、2.6kg ありました。(笑)


この本の中に、神田駿河台にあるニコライ堂の建設中に撮ったパノラマ写真が載っててね。
13枚ある写真の1枚に小松宮邸が写ってました。

拡大したのがこれ。

凄い洋館だなあ。


小松宮の敷地がいつ人の手 ( 明治大学とか佐藤さんとか ) に渡ったかについては、
調べがついてないけれど、小松宮は断絶してたワケだし、
昭和になって天皇家と秩父・高松・三笠の直宮家を除く傍系11宮家が皇籍を離脱したでしょう?
駿河台の広大な敷地は相続はされなかったのではないかしら。

ところが。。
『山の上ホテルの流儀』 p.121に、こんな記述を発見。
昭和三十二年 (1957)、本館の目の前の土地を 小松さんという方から譲り受け、客室がわずか六室、式場、美容院というかたちで「山の上ホテル別館」として営業したのですが、昭和四十五年 (1970) にこの建物を取り壊して客室四十という新館として建設しました。


1957年といえば、 小松家の継承者 は、小松輝久 (1888〜1970) さんか、その御子息-小松彰久 (1919〜1990) さんの時代になっていたでしょうが、本に出て来る“小松さん”とは関係ないのかしらねえ。
ううぅ、まだまだ興味は尽きません。

archives

recent comment

profile

search this site.

calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< November 2018 >>

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM